〜「nuit blanche 〜眠れない夜〜」より抜粋〜
一人でベンチに腰掛けて、枯葉が風に吹き寄せられる様や、鳩が鈴なりになって彫像の上で羽根を
休めているのをぼんやりと眺めていると、何人もの男女が入れ替わり立ち替わり近づいては声を掛けて来る。
時間を知りたいらしいので腕時計を見せてやると、礼を言った後も立ち去らずに、隣に座ってもいいかと聞いてくる。
お茶を飲みに行こうとか、散歩しようとか、アキラがフランス語は出来ないとわかっても、めげずに英語で話し掛けてくる。
いい加減、断るのにうんざりした頃にヒカルが戻ってきて、二人一緒に付き合わないかと誘ってくるのを手際よく断ると、
アキラの腕を取って歩き出した。
「悪い、お前は男だからと思って油断した。女の子なら絶対に一人で置いといたりしないんだけど」
「君だって誘われてたじゃないか」
「そりゃ、俺だってカワイイもん」
ヒカルが手にしていた紙包みのリボンをほどくと、中にはお菓子が二つ入っていた。
「バターたっぷりのリンゴ・タルト。ここのはうまいんだ」
包みから取り出して齧ってみると、甘酸っぱいリンゴの果肉とサクッとしたパイ生地が混ざり合い、
練り込まれたバターの深みのある香りが口の中に広がった。
「ケーキを手づかみにするなんて、初めてだ。歩きながら食べるのは行儀が悪くて落ち着かないと思ってたけど、
案外楽しいものなんだね」
「お前は縁日に行っても、買い食いなんてしなかったんだろうな」
「そういえば、金魚すくいとヨーヨーすくいしかやったことないな。わたあめは買ってもらったことがあるけど、
家に帰ってから食べようとしたら溶け出してて大変だった」
他愛の無い話をしながら、手入れの行き届いた花壇や、点在する白い彫像の脇を歩いていると、
目の前に不思議な光景が現れた。
「メディシスの泉っていうんだ」
木陰になった公園の片隅に古めかしい長方形の泉があり、鏡のような水面には樹木がくっきりと映り込んでいる。
それ自体は周辺の景色にしっくり溶け込んでいるのだが、時代を感じさせる彫刻で飾られたその泉の水中から、
どういうわけか、巨大な女性の顔の一部が突き出しているのだ。
水面を境にして空中と水中に対称的に、端正な鼻と唇と顎とがリアルに彩色されてくっきりと存在する光景は
とても不思議で、官能的な雰囲気をも醸し出していた。
「去年はこんなの無かったんだぜ。古き良きパリと現代芸術との融合ってやつ。
期間限定らしいから、見られてラッキーだったな」
そのまま公園を出て、石畳をシテ島の方向へと歩いた。
やがてセーヌ川にぶつかったので、階段を下りて川岸へと歩みを進める。
そこかしこに置かれたベンチや川辺では、何組ものカップルが抱き合い、キスを交わしていた。
アキラは目のやり場に困って下りてきた階段に後戻りしようとしたけれど、うろたえている間にヒカルに
しっかり抱き締められてしまっていた。
耳元で「好きだ」と囁かれ、返事をする間もなく顎を捕えられ、唇を奪われていた。
ふいを突かれてされるがままになってしまい、舌まで入れられたところでやっと体を突き離した。
「な、何を、い、いきなり・・・!」
頬を赤く染めて怒る顔に見とれながら、ヒカルはへらっと笑ってみせた。